1871年~1918年
普仏戦争(プロイセン=フランス戦争)の最中に成立。
プロイセン国王がドイツ皇帝となった。
複数の君主国と都市からなる連邦国家で、各代表から構成される連邦参議院が置かれた。
普通選挙による帝国議会もあった。
ビスマルク体制
ドイツ帝国の宰相ビスマルクによる国際体制。
1870年代から1890年代にかけて、フランスを封じ込めて孤立させた。
また、諸国の勢力均衡を図った。
この頃のイギリスは「光栄ある孤立」としてどこの国とも同盟を結んでいなかった。
ドイツはオーストリア、イタリア、ロシアと同盟を結んだり、国際紛争への介入などもした。
文化闘争(ぶんかとうそう)
1871年~1880年
ビスマルクとカトリック教会の間の政治闘争。
ビスマルクはプロイセンや自身に反対するカトリック教会のドイツでの権限を抑えようとした。
抵抗が大きく、最後は妥協した。
三帝同盟(さんていどうめい)
ドイツ、オーストリア、ロシアの同盟。
1872年にビスマルクが主導して結ばれた。
3国の皇帝が集まって話し合われた。
バルカン半島を巡ってオーストリアとロシアが対立し、ベルリン会議で一時解消。
1881年に新三帝同盟が結ばれたが、1887年に期限が切れた。
ベルリン会議
1878年にビスマルクが主導した国際会議。
この年、露土戦争(ロシア=トルコ戦争)に勝利したロシアは、サン=ステファノ条約でバルカン半島への南下政策を成功させていた。
それに対してイギリスとオーストリアが反発し、ドイツが調停役となった。
ベルリン会議でロシア有利のサン=ステファノ条約を破棄して、新たにベルリン条約を結ぶこととなった。
ロシアはドイツやオーストリアとの関係が悪化し、三帝同盟は一時解消となった。
ベルリン条約
1878年にベルリン会議で結ばれた条約。
ロシアに有利だったサン=ステファノ条約にかわり、イギリスやオーストリアよりとなった。
サン=ステファノ条約でオスマン帝国から独立したバルカン半島のルーマニア、セルビア、モンテネグロの承認がされた。
ブルガリアに関しては、サン=ステファノ条約ではロシア保護下の自治国となるはずだったが、領土縮小の上でオスマン帝国保護下の自治国となった。
この他に、イギリスはキプロス島の占領と行政権、オーストリアはボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領と行政権を認められた。
社会主義者鎮圧法(しゃかいしゅぎしゃちんあつほう)
ビスマルクによって1878年に制定され、社会主義を弾圧した。
1875年に社会主義の政党が合同してドイツ社会主義労働者党が成立していた。
ヴィルヘルム1世を暗殺しようとした皇帝狙撃事件(こうていそげきじけん)を口実に、無理やり社会主義の政党や労働組合を禁止した。
1890年に廃止され、同年にドイツ社会主義労働者党はドイツ社会民主党となった。
社会保障制度
ビスマルクは社会主義を弾圧する一方で、社会政策を進めた。
災害保険、疾病保険(しっぺいほけん)、養老保険といった社会保険を整備した。
労働者を保護することで、社会主義に向かわないようにした。
三国同盟(さんごくどうめい)
1882年~1915年
ドイツ、オーストリア、イタリアの同盟。
北アフリカでフランスと対立していたイタリアとフランスの孤立化を狙うビスマルクの思惑が一致した。
軍事同盟だったが、オーストリアとイタリアは「未回収のイタリア」を巡って対立してもいた。
第一次世界大戦が始まると破綻した。
再保障条約(さいほしょうじょうやく)
1887年~1890年
三帝同盟が失効した後のドイツとロシアの同盟。
オーストリアとロシアは対立したが、ビスマルクはドイツとロシアの関係を維持しようとした。
ロシアとフランスの接近を防ぐことが目的だったが、ビスマルクの引退で条約が更新されなかった。
再保険条約などともいう。
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