東南アジアでのオランダの植民地で、現在のインドネシアの領域へと広がった。
スペインとのオランダ独立戦争の最中、1602年にオランダ東インド会社がジャワ島のバタヴィアを拠点に設立された。
(オランダは1609年の休戦条約で実質的にスペインから独立し、1648年のウェストファリア条約で国際的に承認された。)
1623年にはアンボイナ事件でイギリスをインドネシアから追い出した。
17世紀にオランダは海上交易の覇権を握ったが英蘭戦争(イギリス=オランダ戦争)に敗れ、海上の覇権はイギリスに移ったがインドネシアで勢力を広げた。
フランス革命軍に占領されたオランダ本国は1795年にバタヴィア共和国となり、さらに香辛料価格の下落もあって1799年にオランダ東インド会社は解散させられた。
オランダ領東インドは本国の直轄地となり、オランダ政庁が設置されて総督が派遣された。
フランスのナポレオンによる支配から解放されてからもイギリスと争ったが、1824年にはイギリス=オランダ協定が結ばれて東南アジアでの勢力圏をマラッカ海峡で分け合った。
その後、ジャワ戦争やアチェ戦争を経て、1910年代にインドネシア全域を支配するようになった。
強制栽培制度(きょうせいさいばいせいど)
オランダ領東インドで実施された農業制度。
植民地で起こっていた戦争による戦費や1830年のベルギーのオランダからの独立によってオランダ政府の財政は悪化していた。
1830年、ジャワ戦争が終わり、ファン=デン=ボスがオランダ領東インド総督となるとジャワ島で強制栽培制度が始まった。
財政改善のために利益を重視し、サトウキビ、コーヒー、藍などの作物を強制的に栽培させることとなった。
サトウキビ、コーヒー、藍などが作られた。
作物は安く買われオランダは大きな利益を得て、それをもとに産業革命が進んだ。
一方で農民の負担は厳して飢饉も起こり、批判とともに強制栽培制度も制限されるようになっていった。
海峡植民地(かいきょうしょくみんち)
東南アジアのマレー半島のマラッカ海峡側に位置し、イギリスが支配した植民地。
1826年に設立され、ペナン、マラッカ、シンガポールを含む地域が対象となった。
ペナンはマレー半島の北部にある島で、1786年にイギリスが取得して交易都市とした。
マラッカはマレー半島南西部にあり、マラッカ王国の都で交易が盛んな都市だったが、ポルトガルやオランダの支配を経て1824年にイギリスに渡った。
シンガポールはマレー半島の南端にあり、1819年にイギリスのラッフルズが開港させた。
これらは1824年にイギリス=オランダ協定でイギリスの植民地となり、1826年に合わせて海峡植民地とされた。
1858年にイギリス東インド会社が解散されるとイギリス領インドの管轄となり、1867年にはイギリスの直轄領となった。
マレー連合州
マレー半島南部にあったイギリスの保護領。
ペラ、スランゴール、ネグリ・センビラン、パハンの4州のこと。
それぞれ独立した国だったが、19世紀後半にイギリスが進出した。
1895年に協定が結ばれ、翌1896年に保護領となった。
19世紀末にイギリスがブラジルの天然ゴムを持ち込みプランテーションとした。
プランテーションでは、タミル人などインドからの移民(印僑)が労働力となった。
錫(すず)の鉱床開発も行われ、中国人移民(華僑)の苦力(クーリー)が労働力となった。
ビルマ戦争
1824年~1826年、1852年~1853年、1885年
イギリスとビルマとの間で行われた戦争。
3度に渡り、いずれもイギリスが勝利した。
ビルマでは1752年にコンバウン朝(アラウンパヤー朝)が成立し、1767年にはタイのアユタヤ朝を滅ぼすなど領土を広げていた。
コンバウン朝はアッサムを征服し、ベンガルにも侵入していた。
第一次ビルマ戦争では、インドに権益を広げていたイギリスがビルマを攻めた。
イギリスはインドでのシク戦争に勝利すると、第二次ビルマ戦争で再びビルマを攻めた。
インドでのシパーヒーの乱を収め、マレー半島の海峡植民地を手にしたイギリスは、第三次ビルマ戦争をしかけた。
戦うごとにコンバウン朝は領土を減らし、第三次ビルマ戦争でコンバウン朝は滅びた。
1886年にはビルマはインド帝国に併合された。
イギリス=ビルマ戦争、英緬戦争(えいめんせんそう)ともいう。
マニラ
フィリピンの港湾都市。
1571年にスペインが支配するようになり、メキシコとのアカプルコ貿易や東アジアとの貿易の拠点となった。
18世紀後半には七年戦争で一時期、イギリス東インド会社に占領されていた。
19世紀初にはメキシコがスペインから独立したことでアカプルコ貿易が終わった。
1834年には新たな貿易相手を得るためマニラが他のヨーロッパ諸国にも開港された。
1898年、米西戦争でフィリピンがアメリカ領となり、マニラはアメリカによって開発された。
第二次世界大戦で日本による占領を経て、フィリピンがアメリカから独立すると後に首都となった。
阮朝(げんちょう、グエンちょう)
1802年~1945年
ベトナム最後の王朝。
阮福映(げんふくえい、グエン・フク・イン)が、西山の乱で成立していた西山朝を滅ぼして建国した。
ベトナム中部のユエ(フエ)を都とした。
清に朝貢して、1804年に越南国として冊封された。
1858年、フランスのナポレオン3世が軍を送り、仏越戦争(ふつえつせんそう)が始まった。
二度のサイゴン条約でフランスはベトナム南部を支配し、1883年のユエ条約でベトナムはフランスの保護国となった。(1884年にもユエ条約が結ばれ内容が強化された。)
1884年に清仏戦争が起こり、翌1885年の天津条約で清のベトナムへの影響力が排除された。
阮朝は実権を失い、1945年に第二次世界大戦が終わると革命が起こって滅んだ。
劉永福(りゅうえいふく)
1837年~1917年
中国の軍人で、ベトナムなどで活動した。
太平天国の乱の後、清からベトナムに進入して阮朝に帰順した。
1867年、中国人部隊の黒旗軍(こっきぐん)を結成した。
1873年、仏越戦争に参加して、ベトナム軍とともにフランスを攻撃した。
1884年からは清仏戦争に清側で戦い、翌年に戦争が終わると中国に戻った。
日清戦争では台湾で日本と戦った。
辛亥革命後も中華民国で日本への抵抗を続けた。
清仏戦争(しんふつせんそう)
1884年~1885年
清とフランスの間で行われた戦争。
ベトナムの宗主権を巡って争った。
フランスがベトナムを保護国としたことに、宗主国だった清は反発していた。
1884年に交渉が行なわれたが、武力衝突となった。
フランスが優位な講和がなり、1885年に天津条約が結ばれた。
清はベトナムに対する宗主権を放棄し、フランスが保護国とすることを認めた。
フランス領インドシナ連邦
フランスが東南アジアのインドシナ半島に設立した植民地で、現在のベトナム、ラオス、カンボジアの辺り。
1862年、仏越戦争のときの第一次サイゴン条約で、阮朝よりベトナム南部のコーチシナ東部を獲得した。
1863年、カンボジアを保護国とした。
1867年にはフランスがコーチシナ西部を占領し、1874年の第二次サイゴン条約でフランスはコーチシナ全域を正式に支配することとなった。
1883年から1884年のユエ条約でベトナムを保護国とし、清仏戦争の天津条約でフランスはベトナムの宗主権を確立した。
1887年、フランス領インドシナ連邦が成立した。
この時点ではコーチシナ(ベトナム南部)、アンナン(ベトナム中部)、トンキン(ベトナム北部)、カンボジアからなっていた。
1893年にフランスはラオスをフランス領ラオスとし、1899年にフランス領インドシナ連邦に組み入れた。
第二次世界大戦が始まるとにフランスがドイツに占領され、日本が進駐した。
戦後、インドシナ戦争でフランスが敗れ、フランスは東南アジアから撤退した。
ラーマ4世
1804年~1868年
在位:1851年~1868年
タイのラタナコーシン朝(チャクリ朝)の第4代国王。
1855年、イギリスとボーリング条約を締結し、開国をした。
欧米諸国との外交で、タイの独立を保った。
西洋の文明を取り入れ、近代化の基礎を築いた。
ボーリング条約
タイとイギリスとの間の条約。
1855年に結ばれた修好通商条約で、イギリス全権のバウリング(ボーリング)の名がついている。
自由貿易を求めるもので、タイのラーマ4世は開国した。
タイの近代化を進める改革を促したが、不平等条約でもあった。
ラーマ5世
1853年~1910年
在位:1868年~1910年
タイのラタナコーシン朝(チャクリ朝)の第5代国王。
ラーマ4世の子。
近代化を推進して、不平等条約の改正を目指した。
欧米の制度を導入して、チャクリ改革を実施した。
チュラロンコンと称される。
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