2024年10月05日

19世紀のオスマン帝国とエジプト、イラン【基礎のまとめ】

東方問題
19世紀頃のオスマン帝国とヨーロッパ諸国との外交問題のこと。
ヨーロッパから見てオスマン帝国が東方になるために東方問題といった。
1821年から1829年のギリシア独立戦争、1853年から1856年のクリミア戦争、1877年から1878年の露土戦争などでヨーロッパ列強が介入した。

ムハンマド=アリー
1769年~1849年
18世紀末のナポレオンのエジプト遠征に抵抗し、1805年にオスマン帝国のエジプト総督となった。
オスマン帝国のマムルークを一掃し、エジプトの近代化を進めた。
1818年、アラビア半島のワッハーブ王国を一時滅ぼした。
ギリシア独立戦争ではオスマン帝国側としてヨーロッパ列強と戦った。
シリアを巡って、オスマン帝国と2度のエジプト=トルコ戦争を戦った。
エジプトを世襲で支配するようになり、1952年まで続くムハンマド・アリー朝を始めた。

第一次エジプト=トルコ戦争
1831年~1833年
エジプトとオスマン帝国の間であった戦争。
エジプト総督ムハンマド・アリーがシリアを求めて、オスマン帝国を攻めた。
ロシアがオスマン帝国を支援する一方で、イギリスやフランス、オーストリアが介入した。
エジプトが勝利してシリアを占領した。
ロシアは支援したことと引き換えに、オスマン帝国への影響力を大きくした。

トルコ=イギリス通商条約
1838年にオスマン帝国とイギリスの間で締結された条約。
イギリスに領事裁判権を与え、オスマン帝国は関税自主権を失うという不平等条約だった。
この後、他のヨーロッパ諸国とも同様の条約を結ぶようになった。

第二次エジプト=トルコ戦争
1839年~1840年
エジプトとオスマン帝国の間であった戦争。
オスマン帝国がエジプトを攻めが、フランスの支援を得たエジプトが優勢に進めた。
オスマン帝国はロシアの支援を受けたが、イギリス、フランス、オーストリア、プロイセンが介入した。
イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセンが干渉し、1840年にロンドン会議が開かれた。
イギリスの主導でロンドン4国条約が結ばれ、エジプトはシリアを領有できなくなったがエジプト総督の世襲を認められた。
エジプトを支援したフランスはオスマン帝国での影響力が低下し、ロシアも南下政策を阻止された。

タンジマート
1839年~1876年
オスマン帝国が西欧的な近代化を目指した改革。
1839年、スルタンのアブデュルメジト1世ギュルハネ勅令を出したことで始まった。
法制度の近代化、行政、財政、軍事などの改革が行われた。
宗教に関わらず平等にしようとするなどしたが、保守派の抵抗もあった。
1856年にクリミア戦争に勝利したが、改革勅令を出してさらに改革を進めようとした。
1876年、ミドハト憲法の制定により終わった。
ムスリムと非ムスリムでわけずにオスマン人としての意識を持つオスマン主義を唱える知識人たちを生み出した。

スエズ運河
地中海と紅海を結ぶエジプトの運河。
1859年、フランスの外交官レセップスの指導で建設が開始された。
1869年に完成。
アフリカ大陸を回らないでヨーロッパとアジアを結ぶ航路となった。
1875年、財政難だったエジプトはスエズ運河株式会社のエジプト政府保有分の株式をイギリスに売却した。
1882年、ウラービー運動を制圧したイギリスの占領下となった。

ミドハト憲法
1876年に制定されたオスマン帝国の憲法。
自由主義的な改革を進めていた宰相のミドハト=パシャが起草した。
アジア初の近代憲法とされ、二院制の議会などを規定した。
1878年、ロシア=トルコ戦争(露土戦争)を口実にスルタンのアブデュルハミト2世によって停止された。

アブデュルハミト2世
1842年~1918年
在位:1876年~1909年
オスマン帝国の第34代スルタン。
即位直後にミドハト憲法を発布したが、ミドハト=パシャを解任して追放した。
1877年にロシア=トルコ戦争(露土戦争)が始まったが、翌年に憲法を停止して専制政治を始めた。
バルカン半島の多くは独立し、北アフリカはヨーロッパ列強の支配下に置かれた。
アフガーニを招いてパン=イスラーム主義を利用した。
1909年、青年トルコ革命で退位させられた。

パン=イスラーム主義
イスラム世界の統一を目指す考え方。
19世紀後半にイラン出身のアフガーニーが提唱した。
ヨーロッパ列強の植民地主義に対抗しようとしたもの。
アフガーニーはオスマン帝国に送られ、アブデュルハミト2世によって留め置かれた。
アブデュルハミト2世はパン=イスラーム主義を取り入れたが、政治利用にとどまった。
ウラービー運動やタバコ=ボイコット運動に影響を与えた。

ウラービー運動
1881年~1882年
エジプトでウラービー(オラービー、アラービー)が指導した民族運動。
エジプトの財政難などによってヨーロッパ人が大臣になったことなどを受けて、ヨーロッパ列強やオスマン帝国、ムハンマド=アリー朝に対抗しようとした。
1881年、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに掲げて武装蜂起し、一時期はエジプト人による政権を立てて憲法を制定した。
翌年、イギリスが侵攻して軍事介入し、ウラービーは捕えられて運動も終わった。
エジプトはイギリスの実質的な保護国となった。
小説家で政治家の東海散士はウラービー運動に共感し、後に政治小説の『佳人之奇遇』(かじんのきぐう)などでウラービーについて述べている。

ガージャール朝(カージャール朝)
1796年~1925年
イランの王朝。
19世紀に北部からはロシアが侵入し、南部にはイギリスが勢力を広げるようになっていった。
19世紀末のタバコ=ボイコット運動を経て、1905年からイラン立憲革命が起こった。
翌1906年に国民議会が招集され憲法もできたが、ロシアやイギリスが介入して1911年に革命は終わった。
1907年、英露協商のなかで、イギリスとロシアがイランでの支配域をわけあった。
1925年にパフレヴィー朝に取ってかわられた。

タバコ=ボイコット運動
1891年にイランで起こった民族運動。
前年にガージャール朝がイギリス商人のタルボットにタバコの流通などに関する独占権を与えたことが原因となった。
商人やウラマーたちが中心になって、大規模なボイコットなどの抵抗が行なわれた。
翌年、イギリス商人に与えた特権をなくしたが、賠償金を支払うことになった。
イラン人のナショナリズムが強まるきっかけとなった。
posted by 歴史教育研究 at 17:50| まとめ ヨーロッパのアジア進出 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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