1846年~1848年
アメリカとメキシコとの戦争。
アメリカが勝利し、カリフォルニアなどを買収して西海岸に到達した。
これ以後、アメリカは太平洋への進出を積極化した。
ペリー
1794年~1858年
アメリカの海軍軍人。
アメリカ東インド艦隊司令長官。
1846年、アメリカのビッドルが日本に通商を求めに来ていたが、江戸幕府によって拒絶されていた。
1853年、黒船のサスケハナ号で相模国(神奈川県)の三浦半島の浦賀(うらが)に来航した。
久里浜に上陸し、フィルモア大統領からの国書を幕府に渡した。
翌年、再び来航し、日米和親条約を結んだ。
阿部正弘(あべまさひろ)
1819年~1857年
江戸幕府の老中。
ペリー来航に対応して、日米和親条約を結ぶに至った。
次いで、日英和親条約、日露和親条約、日蘭和親条約も結んだ。
列強への対策として幕政の改革に取り組み、安政の改革を主導した。
台場(だいば)
大砲を置くための砲台。
特に江戸湾(東京湾)品川沖の御台場(おだいば)(品川台場)のことをいう。
1853年、ペリーが江戸湾に進入したため、江川英達(江川太郎左衛門)の建議で台場を築くこととなった。
翌年までに5基が完成した。
日米和親条約(にちべいわしんじょうやく)
ペリーが再来日し、江戸幕府と結んだ条約。
1854年に横浜村(神奈川県)で締結され、神奈川条約ともいう。
以下の内容などが定められた。
・伊豆半島の下田(しもだ)、北海道の箱館(はこだて)(後の函館)の開港。
・片務的な最恵国待遇。
・領事(コンシュル)の駐在。
最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)
第三国に最も有利な待遇が与えられた場合、同様の待遇が与えられること。
通常は互いに双務的な最恵国待遇となるが、不平等条約では片方だけに義務を課す片務的なものとなることがあった。
日米和親条約ではアメリカのみに有利である片務的な最恵国待遇だったとされている。
プチャーチン
1804年~1883年
ロシアの海軍軍人。
1853年に長崎に来航したが、クリミア戦争が始まるころに退去した。
翌1854年に長崎に来航した後に下田に移動して上陸し、日露和親条約(日露通好条約)を締結した。
このときに地震による津波で乗艦のディアナ号が大破し、新艦を造った。
1858年、長崎に来航した後に清に向かい、アロー戦争の対応で天津条約を結んだ。
その後に江戸に行き、日露修好通商条約を結んだ。
日露和親条約(にちろわしんじょうやく)
日露通好条約(にちろつうこうじょうやく)ともいう。
ロシアのプチャーチンが江戸幕府と結んだ条約。
1854年(グレゴリオ暦で1855年)に下田で締結された。
以下の内容などが定められた。
・下田、箱館、長崎の開港。
・千島は択捉島と得撫島(うるっぷとう)の間を国境とし、択捉以南を日本領、得撫以北をロシア領とする。
・樺太(サハリン)は国境を定めず、両国民の雑居地とする。
反射炉(はんしゃろ)
鉄などの金属を溶かすための炉。
燃料を燃やす場所と金属を溶かす場所を隔て、天井や壁で反射させて熱を伝える。
日本では1850年に佐賀藩が最初に建てた。
1853年にはペリー来航によって大砲などの製造が急がれるようになり、幕府の命で江川英龍(江川太郎左衛門)が伊豆国(静岡県)の韮山で建設を始めた。
講武所(こうぶしょ)
江戸幕府の軍事訓練のための教育機関。
阿部正弘による安政の改革で1854年に講武場として設置され、1856年に講武所として正式に始まった。
旗本や御家人などに、剣術・槍術・砲術などを教えた。
蕃書調所(ばんしょしらべしょ)
江戸幕府による洋学の教育や研究、翻訳をする機関。
ペリー来航後に外交交渉や外交文書の翻訳、洋楽研究の必要に迫られていた。
1855年に天文方から蛮書和解御用を独立させて洋学所とし、1856年に蕃書調所と改称した。
後に洋書調所、次いで開成所となり、明治時代には開成学校などを経て東京大学となった。
長崎海軍伝習所(ながさきかいぐんでんしゅうじょ)
江戸幕府の海軍教育機関。
1855年、長崎に設立された。
オランダの協力を得て、西洋式の海軍の技術などを学んだ。
長崎製鉄所(ながさきせいてつしょ)
江戸幕府の艦船修理の工場。
1855年、長崎海軍伝習所の設立により修理工場の建設も決まった。
1857年に長崎で建設が始まり、1861年に完成した。
明治時代には長崎造船所となった。
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